子供|子ども|こども #2

 「こども企画課」を「子供……」に変更せよと市長さんが指示した仙台市。その後、結局、市議会で「子供未来局」って組織への編成替えが決まったのだと。あらま。。記者さんの送ってくれた資料によれば、そういう子ども関係部署の名称に漢字二字の「子供」表記を採用している例は、すごーく珍しい、、みたいで。そんなに「子供」、いいかあ?

 ってわけで調べてみましたよ。辞書類はあまり表記に関心を示していませんでした。これも、ちと意外。語誌研究はたくさんあるから、、と思ったけど、“こども”の語誌はあまりないなあ。。でも、ま、論文一つみっけ。で、わかったこと。
 「子供」の「供」は、それ以前に使われてた表記「子共」の「共」に“人偏をつけた”ものらしいと。「共」はたしかに“複数”っぽい。なぜそれに人偏?っていうと、たとえば、“はたらく”の表記が「動く」から「働く」になっていったのと同じように、意味的なカテゴリーの意識が作用したんじゃないか、ってのがひとつ。そしてもうひとつは、「共」の字が「然れ共(しかれども)」みたいな助辞の表記として使われるようになったことに伴って、それと区別するために人偏付きの「供」になっていったんじゃないか、ってこと。
 となると、つまりは「供」の字を使う根拠は、あまりなかったのですね。ま、なりゆきでそうなったってこと、のようなのでした。はあ、そうだったのか。

 「子供」派の人たちは、「子ども」みたいな漢字仮名交じり表記がお嫌いらしいです。でもさ、たとえば「範疇」を「範ちゅう」と書くようなケースとは違くない?って思いますよね。「範ちゅう」は、もともと漢語の熟語であるものを、この字は常用漢字じゃないからって別基準をかぶせて片方だけ仮名にひらいてるわけで、そりゃまた勝手な!と怒ってもいい。けど、“こども”は、“こ”も“ども”ももともと和語だし、しかも「ども」は複数接尾辞みたいな助辞なわけで、むしろ、漢字で書かなきゃならない必然性が、そもそもない、、のではないかい?ってことなわけです。そう考えれば、表記は「子ども」か「こども」でいい、ってことになるわな。
 ただ、「供」は“お供”みたいでよくないという主張も、ちと微妙、、かもね。だって「供」の“意味”ははじめから関係なかったわけだから。ま、いざ使われるようになると、使われたその字のニュアンスが感じられてしまう、ってことはたしかにあるけど。
 というわけで、「子ども」はダメだ、「子供」に直せ、って指示を出すほどのものでもなかろうよ、、と思うんだけど。。ねえ市長様?

 てなことを調べたり考えたりしていたら、自分なら子どもらにどんなふうにこの話をするべかな?って思って、戯れに架空コラム?を書いてしまいました。あは。

 いま仙台では、“こども”を字でどう書くかが、ちょっとした話題なんだって。
 漢字で書けば「子供」、かなで書けば「こども」。でもそれにもう一つ、「子ども」って書き方もあるよね。けっきょく「子供/子ども/こども」の三つの書き方があって、どれがいいのか?ってわけ。
 なんで三つの書き方があるんだろう? これには二つのことが関係してる。
 まず、“こども”はもともと、“こ+ども”。「ども」は「たち」みたいな意味で、一人じゃないってこと。(「この悪党ども!」もおんなじだ。)それがだんだん、“こども”というまとまりで一つの言葉になった。いまでは、一人でも“こども”だし、何人かをまとめて言いたければ、“こどもたち”みたいに「たち」を重ねなきゃいけない。
 そしてもう一つ、「子供」って書くときの「供」の字は、“ども”の意味とはもともと関係ない、当て字といわれるものなんだ。“こども”を「子等」や「子共」と書いていた時代もあって、「子供」という書き方をするようになったのは、江戸時代ぐらいからのことなんだよ。
 つまり何が問題になってるかっていうと、“こども”の“ども”って何だ?ってことなんだね。たかが書き方。けど、言葉は歴史を背負ってる。だから、どの書き方がいいかを決めるのもむずかしい。
 みんなはどの書き方が、すき?